きみと同じ歳のころ

いつも眠たい人が書いた文章置き場

国境

日々、自分という人間がすり減っている。無意識のうちにため息が出る。元気がない。しかし頻繁ではないが時折なにかしらの予定が入るので(そしてそれは楽しみな予定である)、そのときまでは死ねないなあとぼんやり思うレベルの愚鈍さで生きている。いままで「生きていてよかった」と思う瞬間に何回も遭遇した(主に音楽のライブに感動してのことであるが)。そうすれば紛れもなく細胞がいきいきと動きだし、視界に入るすべてのものがきらきらして見えた。息を吸って吐けることに感謝した。仕事の帰りもいつも降りる停留所のひとつ前で降りて、ヘッドフォンから聴こえる歌声に合わせてハミングをしながら楽しく家路に着いた。それは嘘偽りなくしあわせな時間だった。
その気持ちがいまはない。

つい先日もすさまじくすばらしく最高なライブを観た。生きていること、生きていくことを肯定してくれる歌を聴いた。命が燃えていた。そのときの私は紛れもなく感動していたし泣いたし一緒にいた親友と固く握手をした(と思う。記憶が曖昧)。しかし、観たライブで得た熱量や感動とは関係なしに、ライブハウスから出た瞬間私はほぼ無言になった。さっきまであんなにまくしたてるように話していたのに、だ。親友はその理由をふんわりと知っていてくれているのでむやみに話しかけてこないしはげましてこない。ありがとうと思った。

「頬が少しこけたね」
「いや、体重はそんなに変わってないよ?」
「筋肉が減ったんじゃない?」
「なるほど」

そんな会話をライブの待ち時間にした。親友は変化によく気づく。私はそれを聞いて、筋肉が減るのは困るなとぼんやり思った。いつかゲームで見た主人公の男は屈強な腕力を使って敵を倒していてかっこよかったから、私もいつかそうなりたかったのだ(男は敵を倒すのに銃や投擲物も使う)。だからといって筋肉を増やす努力はまったくしていないのだが。

「ちゃんと食べろ」と怒られた。結構まじなトーンだった。分かる。反対の立場だったら私だって言っている。それから電車に乗り、親友おすすめのご飯屋に入って(そこは某スラム街にあるのに店員さんの愛想がすこぶる良い)、メニューの文字列を見て店員さんと親友のおすすめのものと、私が雰囲気で選んだものを注文する。しばらくして運ばれてきた料理はおいしそうで実際おいしかったのだけど、そんなに食べられなかった(親友に食べてもらったが、ときどき食えと色んなものを口に突っこまれた。介護か?)。よく分からずに好奇心で頼んだチャイのサワーは不思議な味がした。

とにかく私は本当に喋らなかった。私は疲れると口を開かなくなるタイプの人間なのだが、それ以上に喋らなかった。口を開くことを放棄していた。親友は「私が話したいことを話すから聞いてくれる?(要約)」と言って、いまプレイしているゲームがどれだけすばらしいかを長い文章でうまく話してくれた。やさしい人である。私はずっとうつろにうんうんとうなずいていた。好きなことを文章で話せるってすごいなと思いながら。